『もらとりあむタマ子』彼女が無職なワケ

 映画『ロスト・イン・トランスレーション』は「尻」から始まる。背中とパンツだけで「孤独」を表した名・タイトルバックだ。本作もまた、主人公の初登場シーンは「尻」。都内高級ホテルの整ったベッドに居たスカーレット・ヨハンソンと異なり、前田敦子が寝そべるのは散らかった部屋の布団。おまけに寝相はグシャグシャ。両者、似ても似つかないわけだが、『ロスト~』と同じく『もらとりあむタマ子』のヒロインもまた、孤独である。

 「傍若無人ヒロインの癒し系ゆったりムービー」みたいに喧伝されているけど、本当にそれ“だけ”だろうか?主人公・タマ子は、本当に寄生することになんの罪悪感も無い、自己本位な女だろうか?自分はどうしてもそう思えなかった。ファム・ファタルと一重に言っても、あの時の加賀まりこだって、いつかのマストロヤンニだって、孤独を抱えていたじゃないか。第一、こんな文章を書けてしまう人間が、孤独じゃないわけないんだ。

 今の自分は、私ではありません。生きている以上、誰もが何かを演じている。私は誰かになっているときが、一番自然に思うのです。そんな私に新しい名前をつけてください。-酒井タマ子(大和田マラソン 中学生の部 第2位) 

1.ヒロインの孤独と無職理由

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『そして父になる』アダルト・チルドレン脱出の成功譚。

 「父の呪縛に囚われていた主人公がアダルト・チルドレンを脱却し孤独じゃなくなる話」である。又、それに伴う「家族の再生」が描かれている。同じくカンヌで賞を授かった『ツリーオブライフ』『トウキョウソナタ』に似ている。文学的に言うと「父殺し」の物語なので、ドリームワークスがリメイク権を得たのも納得だ。子供取り違えは単なるキッカケ。リリー・フランキー真木よう子も、主人公・福山雅治に気づきを与える装置として存在している。

1.孤独な主人公

 両親同士が争う話と思いきや、戦況は3対1。リリー&真木&小野:福山なのである。「育てた子ども派」と「血筋主義」の対決。福山雅治の役柄は、早慶附属校出身の三菱地所務めエリート。成果主義を徹底しており、息子にも妻にもモラルハラスメントを繰り返している(ex.地方出身の妻を前に「あいつは所詮田舎者だったんだ」発言/ピアノ発表会で息子の努力を否定等)。仕事を言い訳にして家庭を放置しているが、実際は自発的に上司を飲みに誘っている始末。家に帰ろうとしていない。まるで妻子と向き合うのを恐れているみたいな仕事人間。専業主婦である妻は彼のモラハラに耐え続けていたが、取り違え問題を機に外部家庭と交流を持ち始め、だんだん夫に反抗的になってゆく(洗脳が溶けハラスメントから息子を守らなければいけないと決心した母親の図)。正直、主人公の味方は育ての子・慶多しか居ない。それなのに、主人公は「慶多を育ててゆく」とは言わない。「育てた子も血がつながった子もこちらが育てる」計画を独りで練っている。弁護士に不可能って言われているのに。 

2.主人公はアダルト・チルドレン

 周囲から孤立してまでも血統主義を貫く主人公。何故か?なにも人格が悪いというわけではない。彼は典型的なアダルト・チルドレン(以下AC)なのだ。

アダルトチルドレン - Wikipedia

「親からの虐待」「アルコール依存症の親がいる家庭」「家庭問題を持つ家族の下」で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷(トラウマ)として残っている人をいう[3]。破滅的であったり、完璧主義であったり、対人関係が苦手であるといった、いくつかの特徴がある。成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な悪影響を及ぼしている。

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『ヒックとドラゴン』とブルーオーシャン戦略

 「竜の狩猟」がアイデンティティとなっているバイキング集落に住む気弱な少年ヒックは、自ら発明した武器で伝説のドラゴンを撃つ。偉大なバイキングである父に「弱い男」烙印を押される彼は、仕留めたドラゴンを手当し、なんと仲良くなってしまう…。

 伝説のドラゴン倒せる時点で天才じゃねーか!・・・というツッコミは置いといて、最強ドラゴン・ティースと仲良くなった彼は、バイキング試験でも「ドラゴンとの交流」をはかり始める。仲良くなったヒックの生態を観察し、それで得た情報が他ドラゴンにも適用するか試す。ティースが苦手なウミネコを、討伐すべきドラゴンに投げてみるとか。他の研修生がドラゴン討伐を志すなか、ヒックの異色策は功を成し、彼は最優秀成績を獲得する。これ、正にブルー・オーシャン戦略。流行り言葉を使うとヒック少年は既存概念を打ち砕く「イノベーション」を起こしたのである。

マーケティング用語集 ブルー・オーシャン戦略 - J-marketing.net produced by JMR生活総合研究所

 ここでは、企業が生き残るために、既存の商品やサービスを改良することで、高コストの激しい「血みどろ」の争いを繰り広げる既存の市場を「レッド・オーシャン」、競争者のいない新たな市場でまだ生まれていない、無限に広がる可能性を秘めた未知の市場空間を「ブルー・オーシャン」と名づけています。この「競争」とは無縁のブルー・オーシャンという新しい価値市場を創造し、ユーザーに高付加価値を低コストで提供することで、利潤の最大化を実現するというのが、この戦略の狙いです。

 『ヒックとドラゴン』に置き換えると以下のようになる。

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シャーリーズ・セロンは何故『モンスター』を演じたのか?

 美人女優シャーリーズ・セロンは、何故あそこまでの身体改造を行い連続殺人犯を演じたのか?それは彼女が『モンスター』の主人公に共感したからではないだろうか。セロンはアイリーン役についてこう語る。 

映画『モンスター』のアイリーンとラヴェンナは、同じ悪でも全く違う、両極にいる人間だった。でもアイリーンもラヴェンナも、涙を流すシーンがショッキングだったって言われることがあるわ。それはみんなが、悪人が自分たちと同じ感情を持っている人間だと思いたくないからなのよ。人が悪いことをしてしまったとき、周りの人間は「あいつと自分は違う」と思うはず。だからその「悪」が人間的な感情を見せたときに、わたしたちは、彼らが自分と同じ人間であることに気付いてとても恐ろしく感じるのよ。だけど、わたしは誰にでも悪人になりうる要素があると思っているわ。

 via 『スノーホワイト』シャーリーズ・セロン単独インタビュー - シネマトゥデイ

 「誰にでもアイリーンになる可能性はある」と断言している。映画のアイリーン像を考えると当然の意見なのだけれど、シャーリーズ・セロンにはある事情がある。彼女は南アフリカ出身。15歳の時、目の前で父親が射殺されている。銃弾を放ったのは実の母親。家庭内暴力からセロンを護る為とった正当防衛。そのあと母は破産間近だった父の油田会社を5年で再建させ、バレエダンサーを目指すセロンにNY行チケットを渡した…。アイリーン役でアカデミー主演女優賞を得た際、セロンは目を潤ましながら母への感謝を述べた。

 中々に一言で言い表せないエピソードなのだけど、『モンスター』の内容を考えると深い意味を持つ。セロンはアイリーンのことを「誰にでもなってしまう可能性がある」存在とした。映画を見ると、アイリーンをシリアル・キラーとした大きな要因は「貧困」と「文化資本不足」。自分も、人生一つでも違えば【「文化資本不足」によって「貧困」から抜け出せない/時に運悪く悲劇を起こしてしまう状態】に陥っていた…そう思ったのではないか。だから、アイリーンというキャラクタと一心同体となろうとした。演じようとした。

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貧困が生んだシリアル・キラー 映画『モンスター』に見る文化資本

「ジャンク・フードより自炊の方が結果的に安くつく」

「お金が無くても新聞売りや奨学金を用いれば進学が出来る」

  …なのに、貧困層の人々は何故そのような「選択」をしないのか?それはその人間が、怠惰だからだ。…

 このような声はよく挙がるが、そもそもその「選択の存在」を「知っていること」は、金銭と教育で育まれた文化資本である。人生において金銭・教育・文化資本を施されなかった人間はそれらの「選択の存在」自体を知らない。

文化資本 - Wikipedia

  •  「客体化された形態の文化資本」(絵画、ピアノなどの楽器、本、骨董品、蔵書等、客体化した形で存在する文化的財)
  • 「制度化された形態の文化資本」(学歴、各種「教育資格」、免状など、制度が保証した形態の文化資本
  • 「身体化された形態の文化資本」(ハビトゥス; 慣習行動を生み出す諸性向、言語の使い方、振る舞い方、センス、美的性向など)

(例)本に囲まれた家庭の子どもは自ずと本好きになる。/文化資本が豊富であればあるほど、学校教育と親和的で、学業達成率が高くなる。 

文化資本

ブルデューは社会的不平等を経済的なそれからではなく,文化資本の配分の不平等から説明している。

 連続殺人鬼である『モンスター』の主人公は、まっとうな「文化資本」を施されなかったホワイト・トラッシュだ。劇中ではそのことが嫌と言うほど提示される。シャーリーズ・セロン演じるアイリーンは「秘書の仕事に必要なスキル」を知らない身で面接に挑み、面接官に「お前のように怠けた人間が一生懸命勉強した者と同じ職に就けると思うか?」と嘲笑される。自らの殺人について「これが私の生きる方法、私は善良な人間」と本気で恋人に説き始める。彼女の文化資本不足は恋人(クリスティーナ・リッチ)の親族を比較すると明瞭。

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『サラの鍵』過去を知らなければ、未来は作れない。

 『最強のふたり』はフランス映画らしく、実話・障碍・格差を扱いながらも「感動しろ」という演出を最後まで行わなかった。本作はそんな映画だ。

 『ザ・マスター』はある種戦争の映画であった。「戦争」は終戦調印しただけでは終わらない。世界大戦に勝っても、海兵であった主人公は戦争の悪夢を延々と見続けた。戦争は決して癒えぬ傷を与える。本作はそんな映画だ。

 『シンドラーのリスト』は、とても巨大なスケールで「人が人として扱われないこと」を描き、人間ひとりひとりの名前を記す行為で「一人一人に人生と価値がある」ことを魅せた。本作はそんな映画だ。

 

 「サラという名前があったこと」。戦争がその名を消し去ったこと。名前なんて一つの看板に過ぎず、それが無くなってもその人が行なってきたこと、人格が失われるわけではない。しかし「名前」は時に一アイデンティティとなること、時に人生の軌跡となることもまた事実で、強制的に「名前」を失わせる所業を、国が行うことは(恐らく)人権的に許されない。本作はその行為を現代から振り返る。

【以下ネタバレ】

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『ザ・マスター』ミイラ取りがミイラに、信者が教祖に

 「観終わったあと、ただ楽しかった、笑えた、泣けたなどと一言で終わらせられる映画は劇場で見る価値が無い」この言葉を是とするのならば、この上なく高尚な作品。 

 新興宗教サイエントロジーがモデルの本作。その開祖のロナルド・ハバードにあたるのは、フィリップ・シーモア・ホフマンではなく主人公なのではないか?

1.サイエントロジー開祖の人物像≒主人公

 以下はロナルド・ハバードの人物像。

  • 第2次世界大戦の間、海軍訓練学校の4ヶ月コースに参加
  • 「金、セックス、大酒、ドラッグしか興味が無かった」と父親に言われている
  • 暴力癖があった

 ホフマンよりも主人公と重なる。逮捕~留置所シーンでは「主人公は感情的に暴力をふるってしまう/ホフマンは緊急時でも言葉で理性的に対応する」対比が描かれていた。ロナルド・ハバードの「宗教的技術」を行うのがホフマンであるが、むしろハバードの「人柄」は主人公が演じているのである。「宗教的技術」は真似られるものなので、むしろハバードにより近いのは主人公なのではないか?では、ホフマンはなんなのか?

2.ホフマンは一宗教家

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